3月25日(日)7:30~8:00
シリーズ・歴史を刻んだ一族④
『繊維王国・石川の父 ~津田家~』
◆◆◆ふるさとの歴史ロマンを探る30分◆◆◆
シリーズ4回目、ラストを飾るのは日本で初めて絹の動力織機を
発明した津田米次郎を中心とする津田家です。
◎金沢の復興
明治という新しい時代を迎え、およそ260年君臨してきた
加賀藩体制が崩れた金沢は、没落の一途をたどっていました。
よく言われる「維新のバスに乗り遅れた」金沢では、
武士を需要としていた職人や商人に大きなダメージを与え、
石川県全体の経済が地盤沈下していきます。
第2代金沢市長・長谷川準也は、
殖産興業によって士族に仕事を持たせ、金沢の復興を図ります。
その復興の柱となったのが「金沢製糸場」。
石川県初の近代的な製造工場です。
この工場建設を手掛けたのがからくり師の津田吉之助です。
吉之助は藩政期の宮大工で、
尾山神社の神門を設計したことでも知られています。
明治初期の日本では、生糸ぐらいしか輸出できる工業製品がなく、
そのため政府は生糸の生産を全国的に奨励していました。
湿潤な気候の北陸はもともと生糸生産が盛んな地で、
「金沢製糸場」の設立は大きな起爆剤となりました。
群馬県の富岡製糸場を視察した吉之助は、
わずか1週間でそのシステムを図面で復元し、
鉄製の機械をすべて木工で復元させました。
その後も長谷川と吉之助は数々の士族授産のプロジェクトを立ち上げ
金沢に経済の復興をもたらしていくのです。
◎日本初の動力機械
製糸や撚糸は機械できるようになったものの、
織物はいまだに手作業の織機に頼っていました。
しかし、手織は品質も不揃いで、何より時間がかかりました。
吉之助の息子・米次郎は15歳で動力織機の製作に取り掛かります。
それは長い長い道のりの始まりでした。
織機について専門知識のなかった津田親子でしたが、
米次郎は独自で研究を重ね、試作品を完成させます。
これは全く使い物になる代物ではありませんでしたが、
可能性を感じた吉之助は、米次郎を京都の府立織殿へと送り出します。
当時、織物の最高研究機関だった織殿で、
米次郎は4か月で技術や織機の構造を学び帰郷します。
18歳で念願の動力織機が完成。しかし、まだ綿しか織ることができず、
その後、幾多の苦難を乗り越えて、ようやく絹を織るための、
「絹力織機(きぬりきしょっき)」を完成させました。
気が付くと20年を超える年月が過ぎていました。
石川県は今も繊維産業が盛んで、
世界が認める技術が受け継がれています。
そこには米次郎の不屈の精神が息づいているようです。
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【リポーター】平見夕紀