8月24日(日)7:30~8:00
シリーズ・百万石を支えた男たち⑦
『黒羽織党・党首 長連弘』
◆◆◆ふるさとの歴史ロマンを探る30分◆◆◆
シリーズ最終回は幕末の混乱期に、藩政改革を唱えた
黒羽織党の党首、長連弘(ちょうつらひろ)です。
◎黒羽織の政治結社
幕末の混乱期、外国船の猛威が振るう中、
加賀藩に政治結社が誕生します。その名も「黒羽織党」…
会合の際、黒い羽織を着用していたことや、
その思想が過激視されていたため、毒のある「フグ」の意味として
「黒羽織」と称されていました。
この政治結社のリーダーが時の加賀藩の政権を握っていた長連弘です。
連弘はもともと保守派の奥村栄実(おくむらてるざね)の片腕として
藩政に加わっていましたが、
海外交易の必要性や経済改革を唱える思想家と出会い、
これまでと180度違う政策を唱えていきます。
奥村の死後、政権を握ると、綱紀静粛、諸政緊縮、海防施設に乗り出し
手腕を発揮しました。しかし、急ぎすぎた改革は保守派から疎まれ、
その独裁政権は約10年で崩壊してしまうのです。
◎長家のルーツと連弘の思い
長家は能登出身の一族で、
かつては七尾城主・畠山家に仕えた七人衆の一角を担っていました。
戦国時代、畠山家滅亡後、
織田信長の命を受けて能登に侵攻していた上杉軍の討伐に参戦。
その武勲から前田利家の厚い信頼を得ることになり、
加賀八家に迎え入れられたのです。
しかし、その後の長家一族は藩政の下支えに徹し、
なかなか表舞台に立つことはありませんでした。
連弘は幕末という時代が、長家再興のチャンスと捉えていたようです。
長家のふるさとである現・穴水町の長谷部神社には、
連弘が寄進した鏡や金沢から運ばせた戸室石の灯篭があり、
かつて利家に認められた長家の「武勲」と「誇り」に
あやかりたいという願いが伝わってきます。
後に13代藩主・斉泰(なりやす)に実績は認められたものの、
志半ばにして散った連弘。
しかし、その精神は次の世代の藩士たちに受け継がれ、
維新を迎えた加賀藩にあって、黒羽織党出身の藩士たちが、
政治の表舞台で活躍するようになるのです。
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【リポーター】平見夕紀